年頭の御挨拶
2013年 01月 01日
私が現代橋梁の中では世界一好きな橋・明石海峡大橋の着工から丁度四半世紀となる二十五年目、同橋の供用開始からは十五年目、そして、日本の伝統的建築物の中では特に私が好きな橋で国の名勝でもある錦帯橋(初代)の竣工からは丁度三百四十年目となる新年を迎え、その年頭に当り、明石海峡大橋を始めとする本四連絡ルートや錦帯橋を始めとする匠の技による名橋が今後も堅牢で長久であり続ける事と、全国各地に架橋されている全ての橋の安全、橋の建設・維持に関わる人達やいつもこのブログを読んで下さる読者様の御健勝・御多幸を、心よりお祈り申し上げます。
東北地方などの一部地域では、一昨年発生した東日本大震災から未だ復興が成らず、多くの被災者達が依然として辛く厳しい生活を余儀なくされておりますが、生命力が強く何度も脱皮を繰り返し成長していく事から再生と繁栄の象徴とされている当年干支の巳(蛇)の如く、本年は日本が大きく再生・復興する年とならん事も強く祈念し、微力ながら私もその実現に尽力していく決意を、昨年の年頭挨拶に続き改めてここに表明させて頂きます。
写真は、平成二十年に私が山口県岩国市で見学・撮影してきた、“美しい”の一言に尽きる日本屈指の名橋・錦帯橋です。“美しい日本”を象徴する橋として、ここに錦帯橋の写真を貼付させて頂きます。
本年も何卒一層の御指導・御鞭撻を賜りますよう、宜しくお願い申し上げます。
平成二十五年 西暦二千十三年
元旦
放生橋 ~誉田八幡宮にある、神様のための太鼓橋~
2012年 11月 20日
欽明天皇の命により建立したと伝わる、「日本最古の八幡宮」としても知られているお宮です。
私はその誉田八幡宮の境内で、放生橋(ほうじょうばし)という名の、長さ4m、幅3m、高さ3.5mの、大変興味深い太鼓橋を見学してきました。
かつては、陵墓の頂上まで渡御していたといい、応神天皇を主祭神とする誉田八幡宮と、応神天皇陵との、古くからの深い繋がりが窺われます。
神社の境内に架けられている橋の形式には、人間(参拝者)が渡る事を主体にして造られた橋と、神々の神霊がお渡りになるものとして、または御神威の発揚のため、神々に捧げられた橋の二つに大別する事ができますが、この放生橋は明らかに後者のタイプの橋で、神々しい荘厳な形式を採っていますが、それ故に、御覧にように人間にとってはかなり渡り辛い形になっています。
以前の記事で紹介した彌彦神社の玉ノ橋(新潟県西蒲原郡弥彦村)も、こういったタイプの橋といえます。
また、通行禁止にはなっていないため参拝者も渡る事はできますが、住吉大社の住吉反橋(大阪市住吉区)や、多賀大社の太閤橋(滋賀県多賀町)なども、その形状からも明らかなように、参拝者よりは神様が渡る事のほうが主体になっている橋といえます。
瀬田の唐橋 ~古代から幾多の戦場となってきた、天下に通じる名橋~
2012年 09月 30日
滋賀県の大津では、日本有数の観音霊場であり紫式部所縁のお寺としても知られる石山寺を参拝し、その後は、かつて延喜式内名神大社、近江国一之宮とされた古社・建部大社もお参りしてきたのですが、石山寺から建部大社まではそれ程遠くない事から歩いて向かい、その際に、私は瀬田の唐橋を渡ってきました。
瀬田の唐橋は、京都府宇治市の宇治橋(伊勢の宇治橋とは別です)、京都府大山崎町・八幡市の山崎橋(現存していません)と共に、日本三名橋の一つとされており、初めて架けられた時期は定かではありませんが、日本書紀にも登場しているのでかなり古い橋である事は確かです。
日本最大の湖である琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、そのため、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかなく、そういった事情から瀬田の唐橋は京都防衛上の要所であり、古来より「唐橋を制する者は天下を制する」と云われ、古代から壬申の乱をはじめ幾多の戦乱の舞台となり、この橋は戦禍で破壊と再建が繰り返されてきました。
武田信玄も死を前にして、「瀬田橋に我が風林火山の旗を立てよ」と言い残したと伝えられています。
但し、当時の橋は現在の橋よりも300m程下流の位置で、現在のように中州を挟んで西側の小橋と東側の大橋から成る二連型になったのは、織田信長が架け替えてからと云われています。
昭和54年に新しく架け替えられた現在の橋は、木造ではなく鉄筋コンクリート製ですが、クリーム色の欄干に旧橋の擬宝珠をつけた橋の造りは古風で情緒深い昔の姿を留めています。
下の地図で、中州を挟んで瀬田川に架かっているのが、現在の瀬田の唐橋です。
欄干には、現在の正式名称である「瀬田唐橋」の名が記されています。
2枚目の写真ではたまたま車の流れが途切れていますが、基本的に日中は常に交通量が多いようです。
ちなみに、西側の小橋、東側の大橋という言い方は、分かりやすいよう便宜的にここでそう用いているだけで、正式名称でも一般的な通称でもありません。
こうして見ると、やはり古風で優美な橋です!
東から京都へ上るには矢橋の港から大津まで船で移動するのが最も早かったのですが、その航路は比叡おろしの強風を受けやすく、船出や船着きが遅れる事が多々あり、そのため、多少遠回りにはなっても瀬田まで南下して、風の影響を受けずに済む唐橋を渡ったほうが日程に乱れが生じる事がないとして、これを連歌師の宗長が「急がば廻れ」と詠んだとの事です。
鶴ヶ城の廊下橋 ~敵の侵入を防ぐ機能を備えた橋~
2012年 08月 02日
鶴ヶ城は、足利義満の時代に葦名氏が東黒川館を築いたのが始まりと云われ、その後、蒲生氏郷が七層の立派な天守閣を築き、加藤時代に現在のような五層の天守閣になりました。
加藤氏が改易された後は、徳川親藩の保科氏(会津藩主となった保科氏は3代目藩主から松平を名乗るようになりました)が入封し、以後、明治維新まで会津松平家の居城となり、戊辰戦争(会津戦争)ではここで一ヶ月にも及ぶ壮絶な籠城戦が行われました。
その籠城戦では、官軍を名乗る薩長などの連合軍による執拗且つ正確な砲撃により城内に多数の戦死者が出ますが、ついに落城する事はありませんでした。しかし、会津藩の降伏により城は薩長軍に開城し、明け渡され、明治7年に、阿弥陀寺に移築された御三階を除く城内全ての建物が取り壊されてしまいました。
現在鶴ヶ城のシンボルになっている美しい天守閣は、昭和40年に鉄筋コンクリート造により復興・再建されたものです。
下の写真は、その鶴ヶ城で私が見学してきた、本丸と二の丸を連絡する「廊下橋」です。
葦名時代には廊下に屋根が付いていたらしく、廊下橋の名の由来はそこにあり、加藤時代に廊下を壊して橋だけにしてしまったという事です。
つまり、平成21年12月5日の記事で紹介した彦根城の廊下橋同様、この橋も、「落とし橋」としての機能を備えているのです。
まるでレゴブロックみたいなユニークな橋
2012年 07月 17日
http://rocketnews24.com/2012/07/16/229929/
最初からレゴブロックをイメージして造られた橋ではなく、単に、古くなったコンクリート製の橋をレゴ風にペイントしただけです。
その発想が楽しくて素晴らしいです!