東日本大震災の発生から丁度5年が経ちました
2016年 03月 11日
平成23年3月11日、つまり丁度5年前の今日、宮城県牡鹿半島の東南東沖130kmの海底を震源とする、国内では観測史上最大規模となるマグニチュード9.0の大地震「東北地方太平洋沖地震」が発生しました。
最大震度7というこの大地震によって発生した巨大な津波は、場所によっては波高10m以上、最大遡上高は40mにも上り、岩手県沖から茨城県沖までの広範囲を襲い、そのため東日本各地、特に東北地方と関東地方の太平洋沿岸部は、筆舌に尽くし難い壊滅的な被害を受けました。
この大地震と、それに伴って発生した津波・余震等により引き起こされた一連の災害は、同年4月1日の閣議で「東日本大震災」と総称される事となり、警察庁発表(平成28年3月現在)によると、東日本大震災の死者は15,894人(犠牲者の9割以上は津波にのみこまれた事による溺死でした)、関連死は3,000人以上にも上り、震災から丸5年が経った現在も、未だ2,561人の行方が分かっておらず、また、70人を超える御遺体の身元が分かっておりません。
避難生活を余儀なくされている方も、約18万人もおり、また、直接的には震災の被害が発生しなかった所でも、間接的な被害、即ち風評被害等を受け、農作物や観光客が激減するなどして立ち行かなくなっている地域も多くあり、震災前と同レベルにまで復興するには、確実にまだまだ長い年月がかかります。
つまり、東日本大震災というのは、被災地で暮らす当事者達にとっては未だ“現在進行中の出来事”であり、決して“終わってしまった過去の事”などではないのです。
未曾有の被害をもたらしたその東日本大震災の発生から丁度5年の月日が経った今日、全国の各地では、同震災で亡くなられた方々に対しての追悼行事や黙祷が行われ、今日、日本列島は深い鎮魂の祈りに包まれました。
東京の国立劇場では、天皇・皇后両陛下の御臨席の下、政府主催による「東日本大震災五周年追悼式」が執り行われ、安倍晋三 内閣総理大臣、菅義偉 内閣官房長官、大島理森 衆議院議長、山崎正昭 参議院議長、寺田逸郎 最高裁判所長官や、津波に襲われた岩手・宮城・福島3県の遺族達など約1090人が出席され、国歌斉唱後、東北地方太平洋沖地震の発生時刻である午後2時46分には参列者全員で1分間黙祷し、犠牲となった方々に祈りが捧げられました。
被災地から遠く離れている私達にも今出来る事、しかも誰にでも出来る事で、そして今後も継続すべき事は、「この震災を決して忘れない」という事です。震災の記憶を風化させる事無く、震災の教訓を後世に伝え、防災意識を高め、復興に向かって心をひとつに行動する事は、同時代を生きる私達日本人全員に課せられた使命でもあります。
些末ながらその一助となるべく、東日本大震災の発生から丁度5年が経った事に因んで今日の記事では、同震災での各地の橋の被害の様子を、写真と共に改めて振り返ってみたいと思います。
空港は大きな被害を受け、定期便の運行が再開されるまで、震災発生から4ヶ月もかかりましたが、貞山堀に架かる多くの橋も、大きな被害を受けました。
仙台市から太平洋沿岸を経て青森市に至る、日本の東海岸における主要国道のひとつ国道45号は、ここでも寸断されました。
阪神・淡路大震災が、地震の揺れや、地震直後に発生した火災により各所で大きな被害が発生したのに対し、東日本大震災での被害の大半は、津波によるものでした。
10m近い高さがあった高架駅でしたが、津波によってその大半が流失してしまいました。
この橋梁は、河口からは3km以上もの距離がありましたが、津波はここにまで到達し、橋梁の一部を浚っていきました。
同区間は八戸線では最も海に近い区間で、長さ40mの大浜川橋梁の橋桁は全て落下しました。
宮城県南三陸町志津川の同橋では、津波で路面がえぐり取られ、通行不能になりました。
最後に、震災で亡くなられた方々の御霊(みたま)に改めて衷心より哀悼の意を捧げると共に、様々な困難に直面しつつも一歩ずつ着実に復興への歩みを続けられている方々に、心より敬意を表します。