瀬田の唐橋 ~古代から幾多の戦場となってきた、天下に通じる名橋~
2012年 09月 30日
滋賀県の大津では、日本有数の観音霊場であり紫式部所縁のお寺としても知られる石山寺を参拝し、その後は、かつて延喜式内名神大社、近江国一之宮とされた古社・建部大社もお参りしてきたのですが、石山寺から建部大社まではそれ程遠くない事から歩いて向かい、その際に、私は瀬田の唐橋を渡ってきました。
瀬田の唐橋は、京都府宇治市の宇治橋(伊勢の宇治橋とは別です)、京都府大山崎町・八幡市の山崎橋(現存していません)と共に、日本三名橋の一つとされており、初めて架けられた時期は定かではありませんが、日本書紀にも登場しているのでかなり古い橋である事は確かです。
日本最大の湖である琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、そのため、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかなく、そういった事情から瀬田の唐橋は京都防衛上の要所であり、古来より「唐橋を制する者は天下を制する」と云われ、古代から壬申の乱をはじめ幾多の戦乱の舞台となり、この橋は戦禍で破壊と再建が繰り返されてきました。
武田信玄も死を前にして、「瀬田橋に我が風林火山の旗を立てよ」と言い残したと伝えられています。
但し、当時の橋は現在の橋よりも300m程下流の位置で、現在のように中州を挟んで西側の小橋と東側の大橋から成る二連型になったのは、織田信長が架け替えてからと云われています。
昭和54年に新しく架け替えられた現在の橋は、木造ではなく鉄筋コンクリート製ですが、クリーム色の欄干に旧橋の擬宝珠をつけた橋の造りは古風で情緒深い昔の姿を留めています。
下の地図で、中州を挟んで瀬田川に架かっているのが、現在の瀬田の唐橋です。
欄干には、現在の正式名称である「瀬田唐橋」の名が記されています。
2枚目の写真ではたまたま車の流れが途切れていますが、基本的に日中は常に交通量が多いようです。
ちなみに、西側の小橋、東側の大橋という言い方は、分かりやすいよう便宜的にここでそう用いているだけで、正式名称でも一般的な通称でもありません。
こうして見ると、やはり古風で優美な橋です!
東から京都へ上るには矢橋の港から大津まで船で移動するのが最も早かったのですが、その航路は比叡おろしの強風を受けやすく、船出や船着きが遅れる事が多々あり、そのため、多少遠回りにはなっても瀬田まで南下して、風の影響を受けずに済む唐橋を渡ったほうが日程に乱れが生じる事がないとして、これを連歌師の宗長が「急がば廻れ」と詠んだとの事です。