鶴ヶ城の廊下橋 ~敵の侵入を防ぐ機能を備えた橋~
2012年 08月 02日
鶴ヶ城は、足利義満の時代に葦名氏が東黒川館を築いたのが始まりと云われ、その後、蒲生氏郷が七層の立派な天守閣を築き、加藤時代に現在のような五層の天守閣になりました。
加藤氏が改易された後は、徳川親藩の保科氏(会津藩主となった保科氏は3代目藩主から松平を名乗るようになりました)が入封し、以後、明治維新まで会津松平家の居城となり、戊辰戦争(会津戦争)ではここで一ヶ月にも及ぶ壮絶な籠城戦が行われました。
その籠城戦では、官軍を名乗る薩長などの連合軍による執拗且つ正確な砲撃により城内に多数の戦死者が出ますが、ついに落城する事はありませんでした。しかし、会津藩の降伏により城は薩長軍に開城し、明け渡され、明治7年に、阿弥陀寺に移築された御三階を除く城内全ての建物が取り壊されてしまいました。
現在鶴ヶ城のシンボルになっている美しい天守閣は、昭和40年に鉄筋コンクリート造により復興・再建されたものです。
下の写真は、その鶴ヶ城で私が見学してきた、本丸と二の丸を連絡する「廊下橋」です。
葦名時代には廊下に屋根が付いていたらしく、廊下橋の名の由来はそこにあり、加藤時代に廊下を壊して橋だけにしてしまったという事です。
つまり、平成21年12月5日の記事で紹介した彦根城の廊下橋同様、この橋も、「落とし橋」としての機能を備えているのです。